後 藤 環 爾

小野梓の記念碑

宿毛市街地(しがいち)(きゅう)本町にある清宝寺(せいほうじ)には、「小野梓君()」が建てられています。

33歳という若さで死去した梓を(しの)んで、尾崎行雄(おざきゆきお)前島密(まえじまひそか)など、当時政治や学問で有名な人々が募金(ぼきん)を集めて東京で製作(せいさく)した碑です。この碑には、「学門の自由と独立(どくりつ)(うった)え続けた梓の人柄(ひとがら)信念(しんねん)が漢字だけの文章で(しる)されています。

またこの碑の横には、早稲田大学がその案内板を設置(せっち)しています。

現在の清宝寺境内

右 小野梓君碑

左 早稲田大学設置案内板

清宝寺と後藤環爾

「小野梓君碑」のある清宝寺は代々(だいだい)小野家とかかわりの深いお寺で、それでこの碑も建てられました。これ以前、清宝寺からは後藤環爾という有名な宗教(しゅうきょう)()がでています。後藤環爾は明治4年(1872)に清宝寺住職(じゅうしょく)の長男として誕生します。九州や東京で学び、青年期には清宝寺にもどって住職をしていた時期もありました。その間では同じ宿毛出身の先輩(せんぱい)で日本鉄道社長だった小野義真(ぎしん)農商務大臣(のうしょうむだいじん)などを歴任(れきにん)した林有造とも親交(しんこう)して、教えをうけていました。

その後、清宝寺の宗派(しゅうは)本山(ほんざん)であった京都の本願寺によばれ、東京築地(つきじ)にもあった本願寺と京都を往復しながら、重職(じゅうしょく)を歴任し、ついには本願寺執行長(しっこうちょう)という、その宗派の最高責任(せきにん)(しゃ)にまでなりました。環爾が本願寺執行長に就任(しゅうにん)する時、当時の総理(そうり)大臣田中義一(たなかぎいち)直接(ちょくせつ)環爾に、「君は本願寺の総理大臣になられたとのこと、まことに喜びに()えない。今後君は宗教に、自分は国政に、ともに国家のため、力を合せてご奉公致(ほうこういた)そう。」と言葉を送っています。

後藤環爾      清宝寺

後藤環爾と東京大震災(だいしんさい)

環爾が本願寺執行長になる以前(いぜん)大正12年(1923)9月1日、東京大震災がおこり、一瞬で首都(しゅと)東京は廃都(はいと)()してしまいました。特に本所深川(ほんじょふかがわ)方面の被害(ひがい)は大きく、数十万の圧死(あっし)者、焼死(しょうし)者を出し、生き残った者も住むに家なく、飲むに水さえない状態(じょうたい)になってしまいました。住民はすべて茫然(ぼうぜん)とし、交通機関はすべてストップし、人心はすさみ、政府は世情(せじょう)を安定させるのに四苦八苦(しくはっく)していました

 築地の本願寺ももちろん焼けて灰になり、東京でのあらゆる活動面(かつどうめん)手痛(ていた)被害(ひがい)となりましたしかし、当時築地の本願寺にいた環爾は、この苦境(くきょう)にも(まった)くひるみませんでした毅然(きぜん)と立ち上って、まず難民救済(なんみんきゅうさい)に乗り出したのです。

なによりもまず食を与え、寝る場所を提供(ていきょう)し、怪我人(けがにん)、病人の治療(ちりょう)にあたること先決(せんけつ)と考え、「慰安休息所(いあんきゅうそくじょ)、「簡易診療所(かんいしんりょうじょ)応急(おうきゅう)設置に取り組みました。

築地の本願寺では飛び()った(かわら)、焼けた(ざい)の片付けの(ひま)もないのに、その庭の片隅(かたすみ)(まく)()って病人や怪我人の収容(しゅうよう)を始め、環爾たちは不眠不休(ふみんふきゅう)活動しました。当時の話では、どれがお医者さんやら、坊さんやら、大工さんやら格好(かっこう)だけでは全くわからなかったそうです。

そして青山(あおやま)、本所、宮城前広場(みやぎまえひろば)深川(ふかがわ)猿江(さるえ)三河島(みかわしま)次々に慰安休息所を開設して難民を救済し、また、手をつくして医師を探しては診療所を開いて、医療(いりょう)救済も進めました。非常事態(ひじょうじたい)直面(ちょくめん)して、いち早くこれらを実行した環爾たちの処置(しょち)は、まことに適切(てきせつ)、災害に疲れた都民からは慈父(じふ)のように(した)われたと伝えられています。

関東大震災直後の東京 銀座

後藤環爾と築地本願寺

そして、震災から日を()復興(ふっこう)金槌(かなづち)の音も次第(しだい)ににぎやかとなり、都民の不安、(あせ)無気力(むきりょく)もだんだん()って活気(かっき)をおびてきたころ、環爾は築地の本願寺復興の悲願達成(ひがんたっせい)にとりかかります

「都民の真の立ち直りは、精神面の立ち直りにある。不屈(ふくつ)、安心の境地(きょうち)(みちび)く心の道場の建設こそ、宗教家に課せられた課題である。」と信じた環爾は、この荒野(こうや)の中に世界的な大建築(だいけんちく)建立(こんりゅう)する悲願のため、あらゆる困難(こんなん)(たたか)決意(けつい)とともに準備を始めました。

築地の本願寺再建にはだれも反対しませんでしたが、再建で最も問題になったのは復興の位置で、元の都市部(としぶ)から別の郊外(こうがい)に移るかどうかでした。資金(しきん)などが関係してくる問題です。

喧々(けんけん)がくがくの議論の中で、環爾は旧位置への復興を強く主張(しゅちょう)します。強引で(ねば)り強い環爾の主張はついに(とお)り、元の場所、築地での復興に決定します。そして環爾は同時に人脈(じんみゃく)を生かして資金の準備にも成功(せいこう)します。

新しい築地の本願寺は、東京帝国大学教授伊藤博圧(とうきょうていこくだいがくきょうじゅいとうひろあつ)に研究を依頼(いらい)し、その結果、世界の宗教建築が参考(さんこう)にされました。世界中の建築様式(ようしき)をそれぞれ取り入れて仕上(しあが)っているので、仏教のみならず、ある意味ではキリスト教の建築も、イスラム教の建築も入っている全く新しい寺院(じいん)完成(かんせい)し、これにより、築地の本願寺の様式は全く世界に(るい)のないものだといわれました。

こうして都市の一角(いっかく)に世界でも(めずら)しい大寺院が出現(しゅつげん)し、環爾はこの建物を都民の心の(いこ)いの場として広く世間(せけん)に提供しました。宗派を問わず、ほとんどの宗教的、修養(しゅうよう)的行事には喜んで利用を許しました。現在も「築地本願寺」として多くの参拝(さんぱい)者を集めるこの寺院の再建(さいけん)は、環爾の一生涯(いっしょうがい)()けて大事業(だいじぎょう)であり、心血(しんけつ)(そそ)いだ成果(せいか)ともいえます

↑再建前 江戸時代の築地 本願寺
↓再建後 現在に続く築地 本願寺 

後藤環爾の社会奉仕(ほうし)

環爾は東京大震災の経験(けいけん)もふまえ、保育事業、医療事業、少年保護(ほご)事業など、あらゆる社会事業にかかわっています。
 現在では全国に公立、私立の保育施設がありますが、環爾の時代はそうした制度は全くなく、特に労働者にとっては、労働中の子どもの養育(よういく)に一番困ったものでした。環爾はこれこそ大きな社会問題として、次々に保育施設を建てて(みずか)施設の代表となって運営(うんえい)にあたりました

震災後、直ちに灰となった築地の本願寺内につくった診療所は、環爾の手配(てはい)順調(じゅんちょう)発展(はってん)し、医師も看護(かんご)も職員も奉仕的な報酬(ほうしゅう)で医療にあたっていました。だから、治療費(ちりょうひ)薬代(くすりだい)はほんの少しで済み、来診者(らいしんしゃ)は毎日朝から殺到(さっとう)(つづ)けました。

そのため、患者(かんじゃ)の減った近辺(きんぺん)の開業医は打撃(だげき)をうけ、薬代の協定違反(きょうていいはん)だと医師会を通じてたびたび抗議(こうぎ)してきました。これに対し環爾は、「それでは今後は当診療所は薬代は一切(いっさい)らないことにする。安いのがいけなければ無料なら違反(いはん)にはなるまい。そうすればあなたがたの方へは患者は1人も行かなくなるが、それでもよろしいか。」といって追い返したそうです。
この診療所がその後、発展(はってん)移転(いてん)して現在では「医療法人あそか病院」という総合病院になっています。

また、環爾は宗教家として、一貫して学校教育、特に女性教育に尽力(じんりょく)し、千代田女子専門学校や、武蔵野女子学院の設立に大きくかかわりました。現在では両学校が合併(がっぺい)して発展(はってん)した、武蔵野大学にその精神が受け()がれています。

設立時後藤環爾が大きくかかわった武蔵野女子学院の築地校舎玄関

後藤環爾の人柄(ひとがら)

環爾は将来への見透(みとお)しが(きわ)めて適格(てきかく)であり、一度計画をたてると果敢(かかん)にこれを断行(だんこう)し、成功するまで絶対に引かない粘り強さを持っていました。環爾はよく、 「なんとかなる。」といったそうですが、環爾の「なんとかなる。」は結果として、必ず「なんとかなった。」と知人が語っています。その実現(じつげん)までの途中(とちゅう)には筆舌(ひつぜつ)(ぜっ)する工夫と努力が(はら)われていたことでしょう。

また、遠く離れていても、常に郷土(きょうど)宿毛のことは気にかけていて、当時、宿毛と一本松の(さかい)を通る道路ができる時、計画では宿毛側から山を迂回(うかい)して一本松側に出る路線(ろせん)決定していたのを、東京でこれを聞いた環爾は断固(だんこ)反対をとなえ、「宿毛の将来の発展のためには、トンネルを掘って最短距離(さいたんきょり)(むす)ぶ路線以外は考えられない。」と、またもや強力に粘り強く力説(りきせつ)しました。その結果、ついには環爾の提案に沿った変更(へんこう)になったのです。

その後この道路は国道56号となり、(なが)く高知県、愛媛県を結ぶ主要(しゅよう)道路として利用されました。近年この付近の国道56号は再整備(さいせいび)されましたが、環爾の提案が元で掘られたトンネルは、新しいトンネルや道路と真直(まっす)ぐに結ばれて快適(かいてき)()()できるように整備され、今日も以前と変わらず多くの交通を支えています。

それから、環爾は求めに応じて色紙などに(しょ)を残しましたが、その時、自分のサインとして「素雲(そうん)」と記しました。このサインのことを「(ごう)」といいますが、愛用(あいよう)していた号を「素雲」にしたのは、「宿毛(すくも)」→「素雲(そくも)」→「素雲(そうん)」と故郷(ふるさと)の宿毛をもじっ(・・・・)つけたといわれています。故郷への愛着(あいちゃく)から「号」を決めたのでしょう。

環爾は昭和12年2月22日、64才で死去しました。

宗教家として東京大震災という前代未聞(ぜんだいみもん)の苦境に直面しても、信仰心(しんこうしん)基礎(きそ)に宗派をこえた信念で粘り強く乗り越え、多くの業績(ぎょうせき)残した環爾。東京や京都で責任ある地位につきながらも、郷里宿毛に(おも)いを持ち続けていたと、環爾を知る人々が語っています



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