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 小野梓は明治19年1月11日、肺を病んで死亡した。わずかに数え年35才の若さであった。そのわずかの間に彼は、大隈重信と共に、立憲改進党を創立し、早稲田大学の前身である東京専門学校を設立し、更に国憲汎論その他多くの法律書を著作し、自ら東洋館書店を経営して良書の普及に尽力するなど、幾多の大事業をなしとげている。もし彼に、後10年の齢を与えたならば、更に驚くべき大事業をなしとげていたことであろう。まことに惜しみても余りあることである。明治時代の英傑は幾人も居るが、国民の多数の支持を受けていた大隈重信が彼を最も尊敬し、その反対の立場にあった伊藤博文や、井上馨が、彼をはばかっていたという一事をみても、小野の偉大な人物が想像できる。

若き日の小野梓

 この小野梓は、嘉永5年2月20日、宿毛に生まれた。父は節吉、母は助野という。父は宿毛邑主安東氏理につかえる軽格の武士であったが、勤王の志が厚く、当時九州方面へ往復した土佐勤王党主武市半平太が、途中宿毛へ寄った場合には常に会見して連絡をとりあっていた。

 その父は慶応2年12月29日に死亡した。その時、小野はわずか15才、父は死の直前彼を病床に呼んで次のことを言いきかせた。

  1. 自分の志を達成する機会が来たなら全力をあげてこれを行なえよ。もし、不幸にして達成する機会がなかったならば、その時こそ平素学び得た学識をもって、不朽の書物を著して後世を導けよ。
  2. 昔から学者は多いが、大抵は腐儒の学で、役に立たず、全く無用の長物である。お前は書を活用する人となれよ、書を読む人となるな。
  3. 自分は尊王討幕に尽力して来たが、不幸病に倒れ、王家回復の大業を見ずに死ぬのはまことに残念である。お前は父の志をつぎ、王家と国家のために尽せよ。身を犠牲にして、国家のために尽すは、男子第1の栄誉であるぞ。

 この父の遺言が少年であった小野の頭の中に深くしみこんだ。そうして彼の生涯は、この遺言の実行であり、この遺言が彼の一生を支配したのである。

 小野は5才の時、習字をはじめたが、習字も読書も嫌いで、遊んでばかりいたので、7、8才になっても学業は進まず、大学1巻の素読に2カ年を費やしている。

 9才の時、宿毛の儒者、酒井南嶺(三治)の門に入ったが、ここでもやはりなまけてばかりいて、学業に身を入れず、いつも机にもたれて居眠りばかりしていた。その間に友達はさっさと帰ってしまい、日が暮れてから目が覚めて、独りで家に帰るということもたびたびであったという。

 11、2才の頃、宿毛に文館という漢学校ができ、武士の子弟は皆それに入ったが、そこでも梓の等級ははじめのうちは、はるかに諸人の下にあったが、彼は大いに悟る所があったと見えて、だんだんと勉強に身を入れはじめた。そうして昼は学校で終日勉強し、夜は父のもとで夜おそくまで熱心に勉強をするようになった。

 14才の時、酒井南嶺が望美楼という塾を開くと、文館通学のかたわら、ここにも通って日の目も見ずに勉強した。やがて文館は拡張されて日新館となったが、彼は今では日新館第1の書生と称されて、館の2階に設けてあった優等生読書室で読書することを許された。

 慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いの後、東征の戦いがはじまった。土佐藩も東征軍を送ったが、宿毛からも一隊を送ることになり、中村進一郎重遠がこれを編制して機勢隊と名づけた。小野は当時17才であったが、中村を説き遂に許されて機勢隊に加わることができ、7月14日に宿毛を出発した。

 

龍龍
この時の出兵の名簿の中に小野 龍龍 一  とあるのが小野梓で、

    龍を4つ合わせてテツと読ませている。即ちテツイチというのが梓の幼名である。

 高知で本藩の兵と合し、大阪、京都を経て北陸に進み、荘内方面に向った。雷村の戦いでは苦戦し、退却しなければならなくなった。しかし別軍が迂回して背後から雷村を襲ったので、遂に敵は退却して小野等もこと無きを得た。やがて、荘内藩主酒井忠篤が降ったので鶴岡に入り、間もなく越後高田から善光寺に出て、中仙道を経て土佐に凱旋した。

 戊辰の役で一時勉学の志をおさえていた彼は、明治2年2月、岩村通俊にともなわれて東京に出て、岩村の家で世話になりながら、懸命に漢学の勉強にいそしんだ。ある日通俊は酔ったふりをして扇でぴしゃりと小野を打ち、

 「貴様は節吉の子だが、今の様子ではとても親爺おやじに及ばんぞ。」といった。小野はこの一言が骨髄に徹して、いかにも残念で仕方がなかった。そして「今に見よ」と心に誓った。彼はその自伝で「岩村ぬしは今に至りても初めに変らず、何くれと余の事を心付け給いて、生涯の恩人なれども、前後この扇子の一撃ほど余の為に辱けなきことはなし」といっている。

 つまりこの一撃が、彼の発憤の契機となったのである。岩村が彼を打ったのは、全く彼を発憤させるためであり、彼を軽んじての行為でなかったことは、彼の言行で明らかである。一撃した岩村も偉く、これを素直にうけて発憤した小野もまた偉かったといえる。

 明治2年9月、岩村は函館府権判事に任ぜられて北海道に赴任したが、小野はとどまって昌平校に通学した。当時土佐藩では、藩邸に学校を設け、在京の学生はすべてそこに入るように命じたが、彼は、上京したのはただ勉学のためだけではなく、広く他藩の人士と交わって、天下の大勢を知る目的もあるから、土佐人ばかりの学校に入るのをこころよしとせず、藩校には入学せず、昌平校をえらんだものである。

 そのため、藩邸では彼の挙動をにくみ、この年11月「藩公に御用があるから、明朝すぐ帰国せよ」という命令を出し、藩の汽船に乗せて彼を土佐に送った。高知に着いて、「御用は何か」と聞くと、「もはや御用はすんだので勝手にいたせ。」という答え、腹が立ったけれど、仕方なく宿毛に帰って、つくづく考えた結果、士分であるからこんなにむずかしいのだ。平民になればどこの学校へ入ろう自由だ。とさとり伯父善平の家の養子となって平民になった。当時は、平民は銭で買ってでさえ士分になりたがっていた世の中である。それをわざわざ、士分を脱して平民になるのであるから、自由を求める小野の決心がいかに強大であったかがよくわかる。すなわち封建のきずなを断ち切って自由の世界へおどり出ようとしたのである。この時小野はまだ18才の少年であった。

 翌明治3年春、小野は再び船に乗って宿毛を出て大阪につき、小野義真の家をたずねた。義真は、平民となってでも勉強してみたいという梓の心意気に感じ、「よろしい、この後はきっと世話をする」といって彼を励ました。小野が英語の勉強をはじめたのはこの時からである。彼は海外留学の志をいだき、やがて義真の世話で、清国に遊び、一度日本に帰ってから、米国に渡り、更に英国に渡って経済や法律の勉強をした。この時に勉強したことや、英国の政治の実際を見聞したことが、後に国憲汎論を著して英国主義の立憲政治を鼓吹し、また自主独立をとなえて東京專門学校を創立した基となったのである。

 帰朝の後、羅馬律要を飜訳出版したが、これによって彼の名声は高くなった。ついで明治9年から司法省に勤めるようになったが、最も厳正であるべき司法省でさえ、藩閥政治の旧弊を脱し切れず、まして他の各省の情実や因縁による政治の弊害は目を覆うものがあるので、それを除去するために、彼は会計検査院の設立を献言し、ついにこれが実現したので、彼も会計検査官に転じて大いに活躍した。

 たまたま、北海道開拓使官有物払下事件が起った。年間15万5,000千円も利益の上る官有物を政府はわずか30万円で、無利子、30年賦といううそのような値段で払下げるというのであり、政府部内でも大隈参議、佐野常民大蔵卿等は徹底的に反対したが、多勢に無勢、ついに押し切られて破れたが、民間でも反対の声が高く、大きな問題となっていた。このような時世に大隈は、早期に憲法を制定して国会を開くことを有栖川宮に進言したが、この大隈の単独行動はいたく他の参議たちを刺激し、大隈を天皇の東北行幸にお供させた留守中に、北海道開拓使官有物の払下げは中止し、他方国会を明治23年開くことを決定した。参議連中から、こうしてのけ者された大隈は大いに立腹し、参議を辞職したため、彼と提携していた小野はじめ多数の同志はことごとく辞職した。小野が会計検査官をやめたのはこうした事情からである。時に明治14年、小野が30才の時であった。

 野に下った小野は、野にはなたれた虎のように、だれはばかる所なく所信を断行したので、彼の3大理想はまたたくまに実現された。すなわち1、改進党の結成。2、東京専門学校の設立。3、良書の普及の3つである。


改進党の結成

 征韓論に破れて辞職した後藤象二郎、江藤新平、板垣退助、副島種臣たちは、明治7年1月、愛国公党を結成して民選議院の設立を建議し、板垣は土佐に帰って、高知に立志社を起こして、自由民権運動を展開した。しかし、明治10年の西南の役に呼応して、土佐でも挙兵する計画があり、これが露顕して、立志社の多くの幹部が獄につながれ、大きな打撃を受けた。

 明治14年、国会設立の詔書が発せられると、板垣は直ちに国会期成同盟会を、更に自由党を組織して、全国を遊説してその党勢を拡張した。

 自由党の主張は、いずれかといえば急進的で、その理論的根拠はルソーから出ており、フランス革命の3大理想、自由、平等、博愛を唱え、ややもすれば、フランス革命のようになるおそれも感じられたので、党勢のあがる反面これを心配し、反対する人々もまた多かったのであった。すなわち、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄等の東洋議政会。沼間守一、河野敏鎌等の嚶鳴社。小野梓、高田早苗等の鴎渡会等に属する人々達で、この3つの結社を母体とし、同志を糾合して結成されたのが、改進党である。むろん、結成者は大隈重信であるが、大隈に結成を進言し、その準備工作を行なったのは主として小野であった。

 改進党の宣言の中に、これより前、小野が明治14年12月16日に執筆した「何似結党」の文章の一部がそのまま採択されている点からみて、党の綱領も、小野が高田らと打ち合わせて作ったものに相違ない。この宣言で、

 「我党は実に王家の無窮に保持すべき尊宗と人民の永遠に享有すべき幸福をねがうの人を以って此政党を団結せんとす」と述べ、「急激の改革は、我党の望に非ず、蓋し順序をおわずして遽に改革を為さんこと冀うは所謂る社会の秩序を紊乱するもの」また「我党は実に平和の手段によって我政治を改良し、順正の方便を以て前進しよう」といっている。

 明治15年4月16日の午後、立憲改進党の結成式は木挽町の明治会堂で盛大に挙行された。役員推戴の項になると河野敏鎌が起って大隈を総理に推すことをはかり、一同異議なくこれに賛同し、次で掌事の選挙に移ったが、小野は、牟田ロ元学、春木義彰と共にこれに当選した。

 こうして、改進党は結成され、各地に演説会を開いて、党勢はいやが上にもさかんとなったが、結党前後の小野の活動は、なみたいていのものではなく、改進党の真の結成者、真の推進者は小野であるといっても決して過言ではない。


学問の独立運動-東京専門学校の設立

 大隈は、学問や教育にも深い関心をもち、維新前に、すでに長崎で英語学校を開いて4年間子弟の教育をしたこともあり、西南の役後は、国会を開設して国民多数の意見による政治を行なうためには、先ず政治や経済に理解のある人材を養成せねばならないと考えていた。また彼は、官立の当時の大学は、まったく官僚の意のままで、独自の精神もなく、諸外国の模倣に過ぎない間違った教育方針で運営していることにあきたらず、私学をさかんにして自由の学府を盛り立て、学問の独立を計らねばならないとの考えを持っていた。

 大隈は、改進党を組織した前後、たびたび小野とこのことについて語り合ったが、小野も全く同意見であったので、学校設立の準備を小野に一任した。

 小野は、すでに若い学徒を集めて、鴎渡会を組織し、政治経済の学術研究をしていたが、この人たちを中心として、早稲田にある大隈の別邸に学校を開く準備をはじめた。明治15年7月27日には校則を作り、大隈をたずねてそれを示している。学校名も早稲田学校、戸塚学校、東京学校などいろいろ考えられたが、8月19日になって、やっと東京専門学校と名称が決った。

 小野が学問の独立について考えていたのは、若い時からのことで、すでに明治8年に執筆した「勤学の二急」にそのことを論じている。当時の学問の独立とは、日本語で学問するというほどの意味であった。当時、東京帝国大学では、日本人の教師までが、英語で講義をしており、英語の講義でなければ、学問ではないように考えられていたのである。小野は「今日のように外国の文書と言語をもってのみ子弟を教育していては、学問の独立というものは到底できるものではないと考える。是非とも日本語をもって教え、日本語で学ぶということにしなければならない。」と学校創立当時の演説でのべている。

 この東京専門学校の校舎は、明治15年の中頃にはすでに着手されていたと思われる。校舎は3棟で、1棟は講堂、他の2棟は寄宿舎でいずれも木造2階建で、当時としてはまったくすばらしい洋風建築であった。

 校長には大隈の養子、大隈秀麿がなり、小野は、前島密、鳩山和夫、矢野文雄、島田三郎、北畠治房、沼間守一、牟田口元学、成島柳北等と共に議員となった。

 開校式は、明治15年10月21日に行なわれ、小野は、「十数年後には、専門学校を大学の位置に進めたいこと、学問を独立させて国民精神の独立を図りたいこと、学校を政党の外に置いて、学校の学校たる本質をまっとうせしめたいこと。」と、学校に対する希望、態度、抱負について熱弁をふるっている。

 講師は大学出の秀才、新進気鋭の学者であるというので、立憲政治にあこがれ、自主独立をしたう青年論客は続々と集まり、開校の際は78名であったのが、11月に60名、12月に14名と途中編入が引き続き、15年末にはすでに152名に及んだ。そして教師がすべて日本語で教育するのも当時としては大評判であった。

 小野は、学校が開設されると、ほとんど毎日のように学校に出かけた。彼は単に議員というだけで、講師にはなっていなかったけれども、事実は校長の事務をとり、また課外講演として、日本財政論や、国憲汎論を講義した。小野が勤王と立憲政治とを結びつけて論ずる時など、学生も泣き小野も泣くという、実に感動深い講義であったという。

 こうして小野の尽力ででき上った東京専門学校が、後には早稲田大学となり、現在の隆盛を来しているのである。現在早稲田大学には、小野記念館があり、同校の実質的創立者として彼の功績をたたえているが、これはまことに当然のことである。


良書普及運動

 小野は長らく欧米に留学して、図書館というものが、どれほど大切であるかということを知っていたので、明治12年には、早くも共存文庫という図書館の経営を始めた。東京専門学校設立と共に、ここでも学校図書館を経営し、遂に全国でも有数の大図書館である現在の早稲田大学図書館にまで発展する基盤をつくったのである。

 しかし、小野は、天下の読書人に便利と利益を与えるためには、単に、図書の蒐集、図書館の設立だけでは満足ができず、良書を普及しなければならないと考えた。良書の普及とは

  1. 良書を著さなければならない。
  2. 良書を出版しなければならない。
  3. 良書を安く販売しなければならない。

そのためにはどうしても著述と、出版と、販売を行なわなければならないと考えたのである。

 明治16年、彼は小野義真から資金を借り、更に大隈にも相談して、神田区小川町10番地に東洋館書店を開業した。東洋館という名称は、小野の号、東洋からとったものであろう。

 7月31日には、かねて注文していた海外からの洋書が到着したので、翌8月1日に開業したが、開業の翌日だけで50円の売上げがあったという。

 そしてこの書店では次々と新進学者の法律、経済の書籍を発行したが、彼自身も生涯の大著述である国憲汎論をはじめ、数多くの論文や著書を出版した。

 小野は、前年に設立した改進党でも、また東京専門学校でもそれぞれ重要ポストにあって引きつづき活躍しており、更にその上に東洋館書店主として活躍したから、全く東奔西走、席の暖まる暇もない有様であった。このため、平素からあまり健康でなかった彼は、ついに身体を害し、明治17年9月2度目の咯血があり、その後は活動も意にまかせず、東洋館書店も次第に経済的に行きづまって来た。

 小野が東洋館書店を開いた明治16年、郷里宿毛から18才の一青年、坂本嘉治馬が上京して来た。坂本は、酒井融の世話で、東洋館書店で働くようになったが小野が病気で倒れてからは、坂本1人で店を切りまわしていた。この坂本が、やがて小野の死後、東洋館書店を引きつぎ、名も冨山房と改め、遂に小野の意志を立派に達成したのである。


後年の小野梓

 小野が咯血した時、医師は、「胃だ、咯血ではない吐血だ。」といって安心させようとしたが、しかし小野はすでに父が咯血でたおれていたので、内心多少の疑義をもっていた。そうして病をおして国憲汎論下巻の執筆を行ない、やっとこれが完成をみたが、その間たびたびの咯血があり、身体は極度に衰弱して、18年10月9日以降は日記をつける気力さえなくなってしまった。

 この年の12月22日、太政官が廃止されて内閣十省が置かれ、参議伊藤博文が内閣総理大臣に就任した。この改革は、小野が国憲汎論で提唱したところで、彼の年来の望みがここに達成されたわけである。

 その日から約20日、明けて明治19年1月11日、小野はついに錦町の家で息を引き取った。年わずかに35。妻子はもとより日本のあらゆる政界、知識人は彼の死を悲しみ、葬儀には実に千余人の人々が参会して盛大をきわめたのみならず全国各地でも追悼会が開かれ、あらためて小野の偉大さをたたえあった。

 彼の3大理想はわずか1、2年のうちに実現し、それが後世に大発展して大きな影響を与えている。短期間にこれだけの大偉業を達成した小野は、実に大努力家であり、至誠の人であった。しかもその間病魔と闘いながら多くの著書を出し、質量共に偉大な仕事をして、明治時代躍進の基礎を開いた功績は実に大といわなければならない。

 この偉大な小野の功績を後世に残すため、同志の人びとが宿毛清宝寺の境内に大記念碑を建立している。




宿毛人物史より  宿毛市教育委員会