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坂本 嘉冶馬

現在、宿毛文教センターにある坂本図書館は、坂本嘉治馬のたくさんの本が彼の亡き後、屋敷と一緒に当時の宿毛町に寄贈されたのが始まりです。平成15年、宿毛文教センターの開館10周年を記念して、図書館入り口に彼の業績を紹介した記念碑が建てられました。

坂本嘉治馬は慶応2年(1866)10月4日、坂本喜八の長男として、宿毛の「坂の下」に生れました。先祖は江戸時代の宿毛領主の家来でしたが、父の代では家が貧しく、染物業を経営していました。

嘉治馬も18才まで家業を助けましたが、父母に秘密で3年間貯金を貯えて、明治16年(1883)、無断で上京し、本の出版の世界に飛びこみました。

本と深い関わりを持った、坂本嘉治馬とは一体どのような人物だったのでしょうか。嘉治馬の自伝を開いてみましょう。

自分は、7つ、8つの頃から父にいつも、戦争の話や、病気の時お世話になった軍医の酒井融先生の話を聞かされたためか、子供の時から軍人になってみたいような気がしてならなかったが、家庭の事情からして、どうにもならなかった。

しかし、どうしても東京へ行って勉強して、兵学校に入りたいと常に考えておった。そしてその時は父の恩人酒井融先生に、もう一度お世話をしてもらうつもりであった。


酒井(さかい) (とおる)

天保11(1840)宿毛生まれ。医学を学び、戊辰戦争に軍医として従軍しました。

西南の役では熊本城でのろう城に食料調達の責任者として参戦、2ヶ月 にわたってたえぬきました。その後軍隊を退き、小野梓によって開設された会計検査院の検査員になりますが、明治27年に日清戦争がおこると、再び食料の部長に抜擢され、その責任をはたしました。

もちろんその頃、お江戸から宿毛へは船の往復もなし、交通路も開けておらなかった。なにしろ、お江戸へ300里(1里=約4q)、行き帰りで600里といっていた片田舎だから、東京行の旅費など見当もつかなかったが、当時、村の先輩で宿毛を離れている人々へたびたび手紙を出しては、酒井先生の住所や旅費のこと、東京へ行く道順などを聞き合せた。

それで貯金箱を作って、母の手伝いをしたり、遠いところへ荷物を背負って行って、翌日帰ってきた時などにもらう5銭、10銭のごほうびをその貯金箱へ入れたが、3年もすると7円ばかり貯った。

さて飛び出す費用はできたが、一つ困った事は、自分が東京へ行きたいといって両親に頼んでみたところで、当時の家庭の事情から、とても許してくれる見込みは絶対にない。そこで、なにか口実をつくって脱走するほかないとはらをきめた。それがちょうど、明治16年12月の初め頃、18歳であったと記憶する。

そしてその後、大きな荷物を背負って、家から村々を回っての帰りみち、3里ばかり続いている坂道で休みながら、空想にふけっている時、この年末に東京出発を決行しなければ、再び機会は回って来ないかも知れない、それにしても宇和島まで行かないと船がないから、宇和島行きの口実をなにかこしらえなければ出ることができないと思った。

それには自分の家から7里ばかり離れている所の親戚で、自分が商売に行った時など、時々泊るおばさんの家があるので、そこの主人から宇和島へ行くことを頼まれたことにして、両親に話したら必ず承知することは間違いない。宇和島まで無事に行って、ただちに神戸行の船に乗込めばもう大丈夫だから、家へ帰りついたら早速この事を話して、翌朝出発しようと、はらをきめこんだ。自分が今、記憶にはっきり残っているのは、この山道の谷間で静かに考え込んで、いよいよ決心したあの瞬間である。

帰るとすぐ両親に話をしなければならぬ。さもないと機会を失う。しかし、そこは子供である。覚悟はきめても、何となく不安を感じた。家が近くなるほどさらに不安と淋しさが増した。貧乏な家庭の両親を残して、少なくとも10年は再会できないことなど、自分にとっては大きな問題であると同時に、両親にとっても大問題であるからである。当時の心境をおもうにつけ、今もその時の様子がありありと目に映る。

両親へは1泊で帰ると話した。ああ、あの人のお使いならというわけで、なんの疑いもなく易々と承知してくれた時は嬉しかったが、またなにかすまないような自責を覚えた。


      坂ノ下生家跡の記念碑

そして翌朝、5時頃家を出た。その日はちらちら雪が降っていたが、1里ばかり行くと松尾という上り下りで、4里ほどもある有名な山坂にかかった。その頂上でゆっくり休んで、自分の家を眺め、別れを惜しみながら宇和島へ急いだ。

途中1人の友人に出会ったきり、午後4時頃宇和島へ着くまでは誰にも会わなかったが、宇和島の瀬戸熊と云う宿屋へおちつくと、偶然にも同郷の元の友人、矢野寅一君に出会わした。

この人は宿毛の大きな酒屋の息子で、家は富んでいる上、当時神戸の親族の銀行に勤めておられて、いわゆる錦を着て帰るのであったが、「君はどこへ行くのか」と尋ねられたので、事情を話すと「旅費はいくら持っているか」との事であった。「7円持っている」と言うと、「それでは足りなかろう」と言って10円を投げ出してくれた。

非常に嬉しかったが、何だか夢のような気持がした。自分は3年もかかってやっと7円貯めたのに、いきなり10円という大金をもらったからである。

矢野君と別れ、ただちに神戸行の船に乗りこんで神戸に無事上陸し、以前宿毛で自分と最も親しかった武太郎という友人を尋ねて、2、3日そこに滞在し、それから横浜行の船に乗りこみ、横浜に着いた。

横浜から新宿へ来て、たしか日比谷の今の都新聞社の近所と思うが、小さい宿屋におちつき、その日すぐに父の恩人、酒井融先生をたずねた。

ちょうどお役所でお留守中であったが、奥様に上京の事情を取次いでいただいたところ、主人の帰るまで待っておれ、とのことで、しばらく玄関で待っていると、お目にかかることができた。

「自分は喜八の子であるが、父が病気にかかった時、先生が毎日お見舞下さって非常にお世話になった、そのお蔭で一命が助かったという事を、いつも父から聞かされ、本当ならば、そのせがれとして、少しでも御恩返しをするのが当り前なのですが、どうか私をもう一度お世話していただきたい」とお話した。

すると、しばらく自分の顔を見つめておられたが「むー、どこか喜八によく似ている。まあここにおれ」と言われ、嬉しいやら、安心やらで涙が出た。

 

2、3日居るうち、熊本の男が同じく家に居て、だんだん話を聞いてみると、兵学校に入る準備の勉強をしているとのこと、自分もかねての希望であったから、何とかして準備の勉強をしたいと思い、酒井先生にお頼みした。

ところがある日、先生によばれて行くと、「同郷の小野梓という人が書店を開業するはずであるから、この手紙を持って行け」と言われた。

そこで、あて名の場所へたずねて行と、それは神田の小川町で、たしか東洋館事務所という札を掲げた家であった。

2階の事務室へ通され、小野先生に初めてお目にかかった。

いろいろ郷里のことなど聞かれて、自分の上京の目的を問われ、兵学校に入って軍人になりたいとお話したら、「軍人もいいが、学校に入ると、相当学費もいるから、学費のない者にはなかなか難しい。国のために尽すはたらきにかわりはない。商売人になるなら、この東洋館の店に入れば、夜は勉強もできるし、来たらどうか。」と言われ、「とにかく酒井先生にお話して、明日参ります。」と挨拶し、ひとまず戻った。

それから酒井先生にお話ししたら、「ぜひ、東洋館へ入ることにきめたらよかろう。」と言われたので、自分も決心して、翌朝、小野先生にお会いして、東洋館へ入れてもらうことになった。これが私が生涯を出版業にかけるきっかけとなったいきさつである。

 

酒井先生はとても厳格な人で、同家でお世話になった約1カ月間、いろいろとありがたい教えを下さったが、特に、土佐人はみな気が短いということで、忍耐とか根気とかについて教えをうけたことが、後で非常に役に立った。

もちろん、東洋館へ入ってからも、酒井先生のお宅へはときどきお伺いして、わが子のように可愛がってもらったが、自分が東京へ飛び出した動機にもなり、また小野先生との結びの神となったのも先生であるから、不思議といえば、不思議な縁である。

嘉永5年(1852)宿毛生まれ。維新後、アメリカ、イギリスで経済、法律を学び、帰国後は大隈重信とともに改進党の結成、東京専門学校(現早稲田大学)の設立に中心人物として尽力し、自らも良書の普及のために東洋館書店をつくって執筆にもあたりました。彼の著書「国憲(こっけん)汎論(はんろん)」では象徴天皇の理念が説かれています。
    小 野 梓


東洋館は、大きな土蔵造りの和洋をあわせたような立派な家で、当時、神田にはもちろん、東京中でも、あまり見かけないくらいの店構えであった。

先生はいつも東洋館へ来られると、奥の一段高い日本座敷に机を構え、ずっとそこで本の原稿をお書きになり、また事務も取られた。店員は6、7人おったが、みな30歳前後から40歳位で、自分が一番若僧であった。

東洋館書店は英米独仏の本が多かったので、外国語がまったく分からない自分は、しばらくはふき掃除やら、銀行への使いをしていたが、夜間一生懸命勉強して、暇さえあれば棚の本をみて書名を覚えたので、半年ぐらいで並べてある英米独仏の数百種の書名は分かるようになった。

そうなるとだんだん重宝がられてきたが、小野先生がご病気にかかられた上、他の店員が辞めたりして大変手不足になり、小野先生のご病気中からお亡くなりになるまでは、ほとんど自分が全部を切り回していかねばならないような重責を負わされた。

 

小野先生は明治19年、33歳で他界されたが、実に痛恨であった。葬儀は小野先生の義兄、小野義真氏が一切を指揮し、葬儀の日には自分も早稲田の先生方とともに棺のそばにいた。しかし困ったことに葬儀に着ていく服装がないので、古着屋の洋服を借りて間にあわせたが、これが洋服の着はじめだった。

葬儀も終わり、東洋館のことも小野義真氏の手によって処理され、ついに閉店に至ったのである。

 

小野先生に仕えたのはわずかに2年余りだったが、丸出しの田舎者が指導教訓をうけてどうにかこうにか人間らしくしてもらった。色々な意味で1020年の師だったような気がする。店の出口でステッキを天井に指しながら「あそこに蜘蛛の巣があるぞ」と言われたことが今も記憶に残っている。

また、ご病気にかかるちょっと前、お宅に伺ったら「おれが文部大臣になったらお前が東洋館をやるのだぞ」と言われた。当時自分は若いし、あまり気にとめなかったが、今もそのことが頭に残っているのだから、よほど感激したものとみえる。

小野先生は学者であり政治家であり、教育家であられたことは今さら申すまでもないが、やはり天性の大教育家であったと自分は考える。また、何事も責任を持ってことにあたるという風で、東洋館の用務の報告も、ご病気中でも必ず一通り伝票などをご覧になられたくらいだった

天保10(1839)小野義真は宿毛に生まれ、青年時代に蘭学を学び、明治維新後は工部省に勤務しますが、ほどなく政府官職を辞め、岩崎弥太郎の三菱会社に招かれました。

その後、日本鉄道会社を創設して現在の東北本線のもととなる東京、青森間の鉄道を完成させ、この間、鉄道が盛岡まで開通したときには、その記念に小岩井農場をつくり、日本の畜産業に力を尽くしました。
  小野(おの) ()(しん)

葬儀後、あとしまつがほぼ終了したころ、21歳の自分は他に頼るべき人もいないので、小野先生の義兄、小野義真氏にお願いして本屋を出させていただき、小野先生の遺志を継がしてもらおうと堅く決心した。

義真氏のことをあまり知らなかったのでちゅうちょしたが、背に腹はかえられないので、結局お会いし、事情を説明して資金のお願いをした。
 しかし「おれは梓の本屋のために少なからぬ金を出してみな失敗に終わった。だいたい本屋という商売はもうかる商売ではない。だめだ。」と断られた。
 そこで自分は、自分のやりたい本屋というのは東洋館のような大きな本屋ではなく、ごく小さな店で、古本屋から始めて新書を少しづつ売るつもりであると細かくお話し、何度か話し合った結果、ついに「それなら資金を出してやろう」と快く承知してくださった。
 この時の気持ちはただただ感激で、筆や口で言い表すことはできない。この瞬間こそは私の生涯忘れることのできない運命のわかれ道で、今まで50年間この気持ちを思い出さぬことはない。

そして、31日に東京の神田に店を開けることができた。この31日が冨山房の生まれた日である事は言うまでもない。
    ・・・以下続く

嘉治馬のはじめたこの冨山房はまたたく間に成長し、大きな会社になりました。その間、たび重なる戦争や関東大震災による被害などで3度も会社が火事になり、決して平坦な道のりではありませんでしたが、古本の販売からはじめ、小学校や中学校の教科書の出版で力をつけ、『大言海』などの辞書類でも世に知られる出版社になりました。




昭和11(1936)、冨山房創立50周年で嘉治馬は挨拶しています。

ただ私は鈍である。原稿が何年かかってもあまり気にしないでできるまで待っている。そうして3度の火災にあっても原稿はどれも無難で災厄をまぬがれ、まことに運が良かった。また健康であった、病気をしたことがあまりなかった。つまり私のとりえはこれだけであったのであります。丈夫であるということ、根気がよく気長く、飽きずにやる、それに運がよかった。こういうことで歩いてきたのであります。

 

嘉治馬は昭和13(1938)73歳で死去しますが、会社は現在に続いています。