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 竹内(たけうち) 明太郎(めいたろう)  

竹内明太郎の少年時代

明太郎は1860年(万延元年)、宿毛で生まれました。

小野梓は8歳年上です。弟には戦後復興の父といわれる吉田茂がいます。(吉田家養子)

父の竹内綱は全国的に知られる人で、政治家であり、実業家でした。梓の父節吉とも宿毛で一緒に仕事をして、宿毛の景気を良くしました。

明太郎は梓と同じ宿毛の日新館で学びますが、9歳からは父の綱の仕事のため、宿毛を離れます。大阪や東京で、英語、フランス語を学んで西洋文明の知識を得ました。

 

竹内明太郎と鉱山経営

明太郎は26歳のとき、父の綱から自分のやっていた鉱山の経営を任されます。

鉱山経営は、当時燃料の代表だった石炭や、銅などの金属を掘り出す仕事ですが、工業が盛んになりはじめていた日本にとって、その工業を支える鉱山経営は、重要で大きな商売でした。

明太郎は北陸や九州に鉱山を持ち、順調に事業を拡大させましたが、その中で、鉱山での仕事に使う工作機械をつくることも始めました。

石炭や金属はいつか掘り尽くされてしまうことを分かっていた明太郎は、鉱山が閉鎖されても地元の人々が困らないように、鉱山の地元でこの事業を始め、機械産業を根付かせようとしたのです。

 現在、明太郎が経営した鉱山はどこも閉鎖されていますが、その地元で始まった工作機械をつくる事業は、今も大きな会社になって発展を続けています。ブルドーザーやショベルカーで有名な「コマツ」がそれです。

 また、明太郎は政治家としても活躍しました。父綱と同じく衆議院議員に当選しますが、「自分は日本国全体の政治をするのだから」と言って、立候補地高知の人々が東京の明太郎のところまで願い事に来ても、会おうとしなかったそうです。

 

竹内明太郎と教育

鉱山経営などで工業と深く関わった明太郎は、日本の工業教育に強い関心を持ち、将来日本に工業大学をたてることを夢見て、自分の会社の社員を海外に留学させて一流の研究者に育てていました。、

ちょうどそのころ、早稲田大学も理工学部の新設を計画していましたが、なかなか準備が進んでいませんでした。早稲田大学は同じ宿毛出身の小野梓が中心の一人になってはじめた学校です。そこで明太郎は、自分が育てた研究者たちを大学に先生として送り込み、多額の寄付もしました。こうして早稲田大学理工学部はスタートすることができたのです。

 また、高知にも現在の県立高知工業高等学校(当時は私立高知工業学校)を父綱とともにたてました。

 今も県立高知工業高等学校校長室には父綱の「工業は富国の基」と書かれた額が掲げられています。親子二代の工業の対する熱い想いが感じられます。

 明太郎は1928年(昭和3年)、肺炎で亡くなりました。68歳でした。