はし拳の歴史
箸拳が伝えられたのは正徳四年(1714)であるともまた寛永二年(1849)で
あるともいわれているが、記録があるわけでもないからはっきりしたことはわからない。
しかし宿毛の大黒屋丑松方へ来た九州の船頭が、伝えた薩摩拳がはじまりであるというこ
とでは一致しているので、大黒屋丑松が正しいとすれば寛永二年のことであろう。
大黒屋丑松は明治十五年(1882)六十四才で死去、妻ワサは明治四十年八十五才で死去
し墓は城山にある。延光寺に丑松の建てた常夜燈があり、城山の墓をみてもかなりの財力を
証明している現存の老人で大黒屋を知っている者の話では真丁の中程の南側にあって大きな
家であったという。
大黒屋墓地と浄土寺の過去帳を調査したところ
延享二丑年七月五日 大黒屋太七父母
寛政九巳年十二月十日 大黒屋吉次郎
文化六巳年十二月十日 大黒屋甚助
文政二卯年七月二十五日六十三才 大黒屋幸助
文政十二年丑年三月二十四日 大黒屋勝助
弘化五年七月十七日 大黒屋藤助
明治十五年旧十二月七日 六十四才 大黒屋丑松
明治三十二年八月二十五日 五十二才 大黒藤次
明治四十四年三月五日 六十才 大黒伊蔵
その他がある。藤次、伊蔵は丑松の子であるが、その先祖はよくわからない。分家である肴屋
も大黒屋を称したらしく、寛政十年御肴屋太七等の墓もある。
薩摩拳について「広辞苑」をみると「象牙製のや杉箸などの若干をかくして互いにつき出しそ
の数をあてあう拳の一種」であるとし、また「大辞典」に引用の「箱根草」(弘化年間)に「さ
あやるべヱ、二三か何だ、やっぱり三番勝負がよかろう。ナニさつま(一拳極め)が早くていい
やな」とあるところをみると一拳勝負のこともサツマといったらしい。現在鹿児島県で行われて
いる拳は「なんこ」という。これが伝わったものであろう。
「なんこ」は杉箸を三ツ折ったものを使用したというが、現在は「なんこ珠」を使用する。なんこ
珠の大きさは一センチ角で長さは十センチのものを原則とし、縦三十センチ横十五センチ厚さ四
センチ高さ四.五センチのなんこ台を使う、カラン、カランと高い音の出るのがよい台である。
零から六までの数をあてればよい。「なんこ」の起源については諸説があるが、子供の遊びである
お手玉、おはじきが、その始めであろうといわれている。箸でも石でも手当たり次第のものを材料
としてお互いの手に握ったものをあてることから初まったもので、それを大黒屋で船頭たちがやっ
ているのを見たのがはじまりで、土佐で箸拳に発展したものであろう。もとは一拳勝負であったの
が三拳勝負となり負け方が酒を呑むことなど「なんこ」も同じである。
寛永二年(一八四九)に宿毛に伝えられて箸拳となって高知へ普及する
までに、約六十年を要している。明治三十四年(一九〇一)に高知の安
兼楼で箸拳の会が結成された毎月一回開かれ、明治三十八年には会員が
九十名ほどになり箸拳大会も開催されるようになったという。(土佐史
談二二号、六十八号、百九十号)
現在の箸拳ルールとしては、零から六までの数をあてるのであるが、本
拳の場合先手は三本以外の数を云ってはならない、また相手は一本か五
本で応しゅうするのを原則とすることになっている。
資料提供:宿毛市教育委員会 〜宿毛市史より〜
土佐はし拳の由来
はし拳が土佐で始まったのは、正確には定かではありませんが
大体幕末のころ(嘉永2年1849年)宿毛の船頭連中が食事の箸を
用いて数当てのバクチを行っていたのがおこりで、その後金銭の
変わりに盃に満たした酒を負けた方に飲ます風習に変わった。
明治34年4月5日発行の醸造沿革史によると、同年1月21日
からはし拳好きの21人が毎月集まり、はし拳講と言うのをやって
大いに技を競いあったと言うことである。
明治37年、38年の日露戦争当時、土佐の実業家連がその中興の
祖となり、広く県下に流布させた。
現在は、土佐独特のお座敷競技として全国的に知られ正に無形文化財
的な存在となっています。